ヒロシマの空白 被爆75年― 街並み再現 ―

 「ヒロシマの空白 街並み再現」は、原爆で壊滅する前の広島市内を捉えた写真を中心に、Googleマップに配置した中国新聞のウェブサイトです。
 1945年8月6日、米軍は広島上空でB29爆撃機「エノラ・ゲイ」号から原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。街は爆心地から約2キロの範囲が焼け野原となり、人々の命が無差別に奪われました。かつての街の姿、あるいは家族や友人との思い出が刻まれた写真も多くが失われてしまいました。
 それでも、奇跡的に現存する被爆前の写真が原爆資料館などの公的機関に持ち込まれるケースが最近目立っています。広島市内に本社を置く中国新聞は2020年、長期連載「ヒロシマの空白 被爆75年」の一環で、各所に分散して所蔵されている貴重なカットを集めて紙面に掲載。さらに、紙幅の制約により紹介できない写真も含めて横断的に閲覧できるウェブサイトを開設しました。今後も継続して写真を追加していきます。
 1945年末までの広島の原爆犠牲者は推計で「約14万人」あるいは「14万人±1万人」とされていますが、死没者の名前が判明しているのは約8万9千人にとどまっています。悲惨を極めた被害の全容は、依然として不明のままです。その中には、日本が植民地統治していた朝鮮半島から貧困の中、あるいは徴用・徴兵により広島に渡ってきた人たちや家族がいました。「軍都」だった広島には日本各地から兵士が集められていました。
 生活のあらゆる側面が統制、制約の下にあった戦争中でも、爆心直下やその周りには市民の生活の営みが確かにありました。しかし、復興を遂げた現在の広島で、「あの日まで」と「あの日」を実感することは簡単ではありません。当時の写真を保管する個人や団体の皆さんに協力を呼び掛けながらウェブサイトを徐々に充実させ、原爆に消し去られた街の全体像を「再現」する努力を重ねます。
 広島の壊滅から3日後、長崎に2発目の原爆が投下されました。戦後の核開発競争は激化の一途をたどり、現在も米国やロシアなど9カ国に大量の核兵器が存在します。原爆という究極の非人道兵器によって奪われた、街と人を伝える写真の数々。一人でも多くの人が核兵器をめぐる過去、現在、さらには将来と向き合い、被爆者が求め続ける「核兵器なき世界」へと踏み出すきっかけになることを願います。

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