惨禍の記録とは

被爆後の広島の惨状を記録した写真を紹介する新しいコンテンツです。これまでに紹介してきた被爆前の日常生活や街並みを捉えた写真と対比すると、原爆がもたらした被害についてより深く知ることができます。一部の写真では、撮影者や被写体にまつわる連載記事を併せて読むこともできます。

惨禍の記録 ピン

ピンクの大きなピンには、撮影した人の被爆状況や撮影に至る経緯、当時の心境のほか、被写体となった建物の被害などを詳しく紹介した連載記事を掲載していきます。新聞紙面には掲載できなかった写真も紹介しています。

閉じる
0000
当時の出来事

    本川地区と周辺

    本川地区 児童や職人で活気

    鍛冶屋町、左官町、油屋町―。戦前の町名が示すとおり、相生橋(広島市中区)西詰めの本川地区には、問屋や商店、銀行とともに町工場が並んでいた。1945年8月6日に米軍は、丁字形をしたこの橋を目標に原爆を投下。大半の住民が即死し、爆心地から最も近い学校だった本川国民学校(現本川小)は壊滅した。奇跡的に残され、元住民や遺族が大切に保管してきた写真が、かつての暮らしを今に伝える。(桑島美帆、新山京子)

    1937年ごろ

    1937年ごろ

    1945年8月

    1945年8月

    しゃれた校舎に憧れの師

    原爆で一変 火葬場

    本川沿いに立つ校舎の前で児童が、「祝」の人文字をつくり日の丸の旗を高く掲げている。1937年に地元出身者が大蔵大臣に就任したことから、お祝いしようと開かれた行事の一こまだ。学びやの活気とともに、市民が国策に動員された時代の雰囲気が伝わってくる。
     アーチ型の窓が特徴的な校舎も見える。28年に鍛冶屋町(現本川町)に建設され、市内の公立小では第1号の鉄筋建物。「窓がおしゃれだった。1年の担任だった遠藤キヨコ先生は、オルガンがとても上手で、憧れましたよ」
     西(旧姓徳田)敦子さん(83)=西区=は43年に入学した。自宅は学校正門の斜め前。父が運送店を営んでいた。「隣は酒店で、向かいが商人宿。よく子ども同士で行き来して、ご飯を一緒に食べよったよ。いい街でした」

    現在の西さん

    本川国民学校前にあった自宅跡付近で戦前の思い出を語る西さん。当時の校舎は川岸にあり、現在の本川小の敷地に鉄工所や旅館が並んでいた(撮影・山崎亮)

    しかし、本土空襲が激しくなった45年4月、千人余りいた児童のうち約700人が集団疎開や縁故疎開で郊外へ移る。西さんも、父の古里の水内村(現佐伯区)に疎開した。6月ごろ、自宅は防火帯用の空き地を作る建物疎開のため、取り壊されることに。両親は相生橋西詰めの近くに引っ越した。
     あの日、爆心地から約350メートルの至近距離の校舎は外郭を残して全焼。遺体が次々に運びこまれて火葬場と化し、一帯は凄惨(せいさん)を極めた。広島原爆戦災誌によると、当時確認できただけでも、疎開せずにいた児童218人が死亡。「大好きな遠藤先生」も犠牲になった。
     西さん自身、母を失った。12月になって校舎に足を運ぶと「地下の階がむき出しになり、友達とかくれんぼをしたらしゃれこうべが見えた」。その校舎の一部は、今も本川小平和資料館として使われている。
     8割以上の地区住民が死亡した。原爆孤児になった人も多い。左官町(現本川町)で両親が「大下鉄工所」を経営していた大下徳務さん(86)=中区=は光道国民学校の6年生だった。現在の北広島町志路原へ学童疎開している間に、両親や親族を奪われた。

    大下鉄工所

    左官町の「大下鉄工所」。海軍の仕事を請け負い、工場は戦時中もフル稼働だった。1941年撮影(大下徳務さん提供)

    「海軍の仕事を請け負い、毎日夜10時まで動いていた」鉄工所は、被爆から約1週間後に訪れると跡形もなく「焼けた機械の周りに遺骨が5体分くらいあっただけ」。49年に叔父たちが鉄工所を再建し、後に大下さんが継いだ。「原爆のことを思い出すと商売ができん。封印し、誰にも話さずにいた」と明かす。

    綿岡大雅園

    「綿岡大雅園」の倉庫。後列右端に座る男性が重美さん。後列左から4人目の女性が光子さん。長女を残し3人の娘とともに原爆に命を奪われた。1937年10月撮影(岩田美穂さん提供)

    問屋街だった西九軒町(現十日市町)の茶問屋「綿岡大雅園」では、綿岡重美さん=当時(45)=と38歳だった妻光子さん、3歳と6歳の娘が被爆死した。建物疎開に出ていた12歳の次女も亡くなり、16歳だった長女の智津子さん(2011年に82歳で死去)だけが生き残った。智津子さんの長女岩田(旧姓綿岡)美穂さん(62)が、現在も被爆前と同じ場所で営業している。
     岩田さんは約15年前から本川小平和資料館のボランティアガイドを務め、修学旅行生たちに母の被爆体験を語っている。店には、生き生きと働く祖父母の写真や、被爆前日に撮られた家族写真を展示する。「ここにどんな店があり、原爆で何があったかを知ってほしい。ヒロシマは決して昔話ではなく、日常の中で起こったことなんです」

    左官町と辻山時計店

    左官町電停前で戦死者の遺骨の到着を待つ人たち。左が相生橋方面。角の辻山時計店は辻山春夫さん(当時34歳)をはじめ家族4人が原爆の犠牲になった。1937年撮影(柏史江さん提供)

    左官町の妙頂寺付近

    木造家屋が密集し「ヤスリ」「旅館林」などの看板が並ぶ。現在の広島記念病院の西側付近とみられる。1937年撮影(柏史江さん提供)

    山音合名社

    堺町1丁目にあった「山音合名会社」。山崎恭弘さん(87)の祖父音助さんが創業し「関西タクシー」やガソリンスタンドを経営。1928年ごろ、自宅兼店舗前に立つ山崎さんの父太佳司さん(右から3人目)と従業員たち(山崎さん提供)

    本川橋

    戦前の本川橋。中島本町と問屋街の堺町を結んだ。レンガの建物は1913年に広島商業銀行本店として建てられ、20年に芸備銀行(現広島銀行)塚本町支店になった。20~40年代の撮影(広島市公文書館所蔵)

    本川橋現在

    現在の本川橋

    被爆前の本川地区周辺

    被爆前の本川地区周辺
    大きく見る

    当時の広島の写真募ります

    中国新聞社は連載「ヒロシマの空白 被爆75年」の一環で、昭和初期から被爆直前までの広島市内の様子を捉えた写真を募ります。読者や地域の皆さんの自宅に、貴重な一枚が眠っていませんか。情報をお寄せください。写真の一部を紙面上やウェブサイトで順次紹介します。

    ヒロシマ平和メディアセンター

    082(236)2801
    (平日午前10時~午後5時)
    peacemedia@chugoku-np.co.jp

    ↑