本通り・紙屋町と周辺

近年、新たな被爆前の写真のカットが相次いで確認されている広島市中心部の「本通り」とその周辺から、確かにあった日々の営みを見つめる。

1930年ごろ

1930年ごろ

1945年8月

1945年8月

本通りで生きていた 被爆前

一枚の写真 記憶呼び戻す

 19年夏、原爆資料館(広島市中区)で開催中の新着資料展を見学した奥本博さん(89)=同=は、被爆前の本通り商店街を捉えた一枚の写真に目を奪われた。「〓 奥本金物店」。屋号と店名が読み取れた。「ああ、うちの看板じゃ」。あの日の朝以来74年ぶりに、懐かしいわが家と「再会」した。
 祖父が旧播磨屋町12番地に創業した金物店は、奥本さんの生家でもあった。3軒隣の玩具店「マルタカ子供百貨店」は、木馬や滑り台で遊べる遊園地のような場所。近所の「金正堂書店」は2階が食堂で、家族と一緒に―。思い出は尽きない。
 広島市中心部を東西に延びる本通りは、当時から地方随一の繁華街。しかし太平洋戦争の戦況が厳しくなり、物資の統制が進むと店は一つ、また一つと閉店していった。奥本金物店は、金属供出により品物が少なくなると、煮炊きに使う素焼きの「竈(くど)」を扱うなどして存続した。
 本通りでは1945年8月当時も、約160軒が店を開けていたという。原爆が、その全てを焼き尽くした。

敵機爆音レコード

奥左に奥本金物店の店頭看板が見え、中央は玩具や子どもの服のマルタカ子供百貨店。右端に広告がある「敵機爆音レコード」は戦時下、音による米軍機種の判別を掲げ作られていた。写真裏に、陸軍の「昭和18年(43年)」検閲済の印。並んで歩くのは広島高等工業学校(現広島大工学部)の学生(益田崇教さん提供)

 旧制修道中3年だった奥本さんは、爆心地から4・1キロ離れた動員先で被爆した。猛火に阻まれ、本通り周辺に近づくことができない。翌日、自宅前にたどり着き、「博 健在」と書いた紙を倒れていた電柱の上に置いた。爆心地から約430メートル。「家族はどこかへ逃げているに違いない。そればかり思っていた」。何日も歩き回った。
 父八重蔵さん=当時(43)=ら家族6人を失い、生き残ったのは奥本さんと祖母だけだった。末の妹妙子さん=同(4)=は店の焼け跡で小さな骨になっていた。妹文子さん=同(13)、弟の克彦さん=同(8)=と直通さん=同(6)=は、遺骨すら見つかっていない。避難先で再会できた母の寿子さん=同(38)=は下痢に苦しみ、足をさすると「もうええよ」と言い残して被爆の8日後に亡くなった。
 戦後は高松市の親戚宅へ身を寄せたが、古里への思いは消えない。5年後に自宅跡へ戻り、紳士洋品店を約40年間続けた。今も同じ地で暮らし、郵便受けにはかつての屋号を刻む。しかし被爆前のわが家の記憶は、まぶたの奥に浮かぶたたずまいだけだった。
 その「空白」を埋めたのが、安佐南区の会社員益田崇教さん(54)だ。インターネットのオークションも駆使して被爆前の広島の写真を入手するたび、「研究に役立てて」と画像データを原爆資料館などに寄贈している。「奥本金物店」もその中の一枚だった。
 益田さんの母静江さんは現在の十日市町(中区)に自宅があり、5歳で被爆。両親ら家族5人を奪われた。益田さんが高校2年の時、白血病を患い42歳で亡くなった。
 母はどんな街に暮らしていたのだろう、と始めたのが写真収集だった。「祖父母もこの景色を見たのかな」。写真が残っていない家族もおり、面影すら知らない肉親に思いを巡らせてきた。
 あの写真と奥本さんを引き合わせた益田さんは「何よりうれしい縁です」と胸を熱くしている。奥本さんは、小学生と幼稚園児のひ孫2人を連れ新着資料展を再訪した。「私の体験をもっと知りたい、と実感しながら見てくれたはずです」

奥本さん

益田さん提供の写真と同じ場所で、本通りでの暮らしを懐かしむ奥本さん(撮影・高橋洋史)

被爆前の本通り周辺

被爆前の本通り周辺
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当時の広島の写真募ります

中国新聞社は連載「ヒロシマの空白 被爆75年」の一環で、昭和初期から被爆直前までの広島市内の様子を捉えた写真を募ります。読者や地域の皆さんの自宅に、貴重な一枚が眠っていませんか。情報をお寄せください。写真の一部を紙面上やウェブサイトで順次紹介します。

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