米国の原爆投下により、広島では市民生活に関わる行政資料などが大量に失われた。街の姿を知ろうにも、現存する被爆前の写真は限られる。ならば、公的機関や個人の手元に奇跡的に残る一枚を寄せ集めて、記録の「空白」を埋めていこう―。中国新聞社が募って以来、商店街の日常や家族との思い出が刻まれた貴重なカットが読者から寄せられている。一方、原爆資料館(中区)が近年新たに入手した米軍による空撮は、徹底的に焼き尽くされた爆心直下と周辺を、広大な「面」として冷徹に記録する。両方の写真を通して、全てが絶たれた「あの日」を思う。
壊滅した旧中島地区(手前右、現中区の平和記念公園)などを東向きに一望したカット。米軍が1945年10月ごろ撮影(ジョン・ピーターソン夫人寄贈、米海軍歴史遺産部所蔵)
家族の形見 思い巡らせる
「見るたび、両親から受けた愛情を感じます」
「平和へのメッセージ、父からの遺産と思う」
「写真を見るたび、両親から受けた愛情をひしひしと感じます。弟は、がんぼ(わんぱく)でねえ」。廿日市市に住む井上良候(よしとき)さん(90)は、唯一の家族写真を中国新聞に寄せた。兄が袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)の鉄筋校舎の建設に携わっており、その記念で1941~42年ごろ撮ったという。
実家は旧細工町の「坂井誠美堂」。掛け軸や額の制作・販売をしていた。近所の広島県産業奨励館(現原爆ドーム)の敷地は、友人と竹鉄砲を向け合う「戦争ごっこ」の遊び場だった。原爆が約600メートル真上でさく裂し、爆心地となった島病院(現島内科医院)も同じ町内だ。
3歳年下の弟正信さんと特に仲が良かった。時に兄弟げんかもしたが、家で将棋をするなどいつも一緒だった。
袋町国民学校の鉄筋校舎前に立つ井上良候さん(右から2人目)たち。父坂井典夫さん(右から5人目)と母ユクさん(右端)、弟正信さん(右から3人目)は被爆死した。校舎の一部は現在の袋町小平和資料館。41~42年ごろ撮影(井上さん提供)
袋町国民学校の校庭。1942年撮影(三島温子さん提供)
井上さんは45年春に広島師範学校(現広島大)へ進み寮生活を送った。8月5日は日曜日のため、一時帰宅。父の坂井典夫さん=当時(59)、母ユクさん=同(55)=と久々に食卓を囲んだ。県北に集団疎開していた袋町国民学校6年の正信さん=同(12)=も、体調を崩して前日から自宅にいた。
その夜のうちに寮に戻った井上さんは、爆心地から4キロの校内で翌朝被爆した。激しい火災で市中心部に近寄れず、一睡もできないまま7日朝に自宅を目指した。「音のない世界。聞こえるのは自分の軍靴の音だけでした」。散乱する死体を避けながら、たどり着いた爆心直下のわが家に、家族の姿はなかった。
廃虚の市内を、ひたすら捜し歩いた。袋町国民学校の鉄筋校舎は外郭のみを残し、窓にむしろが掛けられた無残な姿と化していた。救護所になったと知らず、負傷者を確認せずに通り過ぎたことを今も悔やむ。遺骨は見つからないままだ。
戦後、復員した兄夫婦に学費を捻出してもらって卒業し、小学校教員になった。退職後は、遊び場だった原爆ドームの前で修学旅行生に体験を語ってきた。「弟の疎開中の暮らしぶりを知りたい。今もそう思うんです」。家族写真を多くの人に見てもらうことで、弟の同級生から情報が得られることを願う。
1937~44年ごろ袋町国民学校近くで営業していた「喫茶フラゥア」。店主の三島捨一さん(後列右端)、長女千鶴子さん(前列右から2人目)たち家族5人が被爆死した。40年ごろ撮影(三島温子さん提供)
ビール瓶などが並ぶ喫茶フラゥアの店内(三島温子さん提供)
袋町国民学校のすぐ近くの旧西魚屋町の写真も、取材班に寄せられた。原爆資料館によると、繁華街の本通り商店街から南にはずれた筋のため、絵はがきなどになりにくく、珍しい。
「喫茶フラゥア(フラワー)」の店主だった三島捨一さんは、カメラが趣味だった。古びた茶色のトランクを開くと、生活感あふれるプリントが詰まっていた。棚にビール瓶が並び、店員と客が笑顔を見せる店内の写真も。世話好きで、古里の瀬戸村(現福山市)の出身者が当時の宇品港から戦地に赴く前、店で酒やごちそうを振る舞う「壮行会」を開いていた。
三島さんは外出中に被爆し、2日後に46歳で亡くなった。長女千鶴子さんのほか、叔父たち親類3人も犠牲になった。
トランクの写真は、当時3歳で母と疎開していた長男健治郎さんが受け継いだ。妻温子さん(74)=福山市=によると、幼くして引き裂かれて顔もはっきりと思い出せない父親の形見として、3年前に75歳で亡くなるまで慈しむように保管していた。
温子さんは、健治郎さんが生前に写真への思いをつづった文章も合わせて寄せてくれた。「戦時中も明るく懸命に生きた人達の幸せを原爆は一瞬で奪った。写真は平和へのメッセージ、父からの遺産と思う」
故三島捨一さんが残した写真。被爆前の広島市内を収めた約100枚が、トランク(奥)に詰めこまれていた(撮影・高橋洋史)
被爆前の写真 ウェブに1000枚 読者提供続々
公的機関の所蔵資料から、取材班がくまなく収集。読者からも個人所蔵の一枚が次々と提供されている。ウェブサイト「ヒロシマの空白 街並み再現」にアップした被爆前の市内の写真は、21日の追加公開分で計千枚に達した。1月の開設以来、読者とともに内容を充実させている。
田曽勝代さん(76)=広島市佐伯区=の手元には、夫の祖父が平田屋町(現中区)で営んだ「タソヤ百貨店」の写真があった。原爆で店は壊滅し、戦後は繁華街の本通りから撤退した。広島積善館(中区)の岡原秀登会長(77)は、1928年撮影の店の外観を寄せてくれた。
安佐南区に住む104歳の瀬川美智子さんが寄せた1枚は、県立広島商業学校(現県立広島商業高)の野球部が29年に夏の甲子園で優勝し、広島駅に凱旋(がいせん)した時のものとみられる。33年に完成した県立広島第二中(現観音高、西区)の50メートルプールを写した1枚は、西区の菊崎芳幸さん(77)の提供。父の遺品で、処分予定だったが紙面を読んで提供を決めた。
原爆で焼かれ、変わり果ててしまう前の地域や生活の姿を知ろうと、広島では60年代後半から官民を挙げた街並みの「復元調査」が行われた。なおも「空白」は残った。写真は、個人の思い出の品であるとともに、ヒロシマの貴重な「資料」にほかならない。
福屋旧館横の劇場「歌舞伎座」などの看板が並ぶ。右奥は中国新聞社。1938~40年撮影(豊田正一さん撮影、豊田健二さん提供)
キリンビヤホール北側の金座街の街並み。1942年ごろ撮影(高田勇さん提供)
劇場や食堂が軒を連ねた「新天地」入り口に立つ旧制広島高(現広島大)の学生。右奥には田中眼鏡店(現メガネの田中チェーン)の看板が見える。1935年ごろ撮影(広島大文書館所蔵)
左奥から手前に安田生命広島支店、住友銀行広島支店、芸備銀行(現広島銀行)本店、大同生命広島支店が見える。1935年撮影(渡辺襄さん撮影、広島市公文書館所蔵)
1940年の皇紀2600年祝賀行事でにぎわう本通り。「桑原漁具店」や、靴をあしらった「ヤマモト本店」と書かれた看板が見える(益田崇教さん提供)
県立広島第一高等女学校(現皆実高)の校庭でバスケットボールを楽しむ生徒。同校は原爆で生徒281人を失った。1938年ごろ撮影(中村恭子さん、益田崇教さん提供)
元安橋の欄干から川を眺める市民。奥に大正屋呉服店(現レストハウス)の看板が見える。鈴木六郎さんが1939年撮影(鈴木恒昭さん提供)
元安橋から望む県産業奨励館(現原爆ドーム) 元安橋の下から望む広島県産業奨励館。少年たちがボートで遊んでいる。土井霞さんが1937年に撮影(土井一彦さん提供)
県産業奨励館の北側の通用口。写るのは広島県被団協(坪井直理事長)の箕牧智之理事長代行の父、故省吾さん。1939年ごろ撮影(箕牧さん提供)
県産業奨励館の庭園で遊ぶ鈴木英昭さん㊨と妹の公子さん。2人とも被爆死した。父の六郎さんが1939年に撮影(鈴木恒昭さん提供)
米軍の原爆投下目標となった相生橋。右奥に県産業奨励館のドーム屋根が見える。右の新宅和子さんは県女1年で被爆し、遺骨は不明。1934年撮影(鈴木恒昭さん提供)
生活の場だった中島本通り。大正屋呉服店(現レストハウス)前から西を望む。1939年ごろ撮影(奥野勝彦さん所蔵、広島市文化振興課提供)
中島本通りの藤井商会前(緒方昭三さん提供)
何が焼け跡になったのか
大きく見る当時の広島の写真募ります
中国新聞社は連載「ヒロシマの空白 被爆75年」の一環で、昭和初期から被爆直前までの広島市内の様子を捉えた写真を募ります。読者や地域の皆さんの自宅に、貴重な一枚が眠っていませんか。情報をお寄せください。写真の一部を紙面上やウェブサイトで順次紹介します。